要約
本書『空白の20時間』は、1997年に刊行された記録集で、長崎に原爆が投下された直後の二十時間に起こった出来事を、被爆者の証言をもとにまとめたものである。絵と手書きの文字で構成され、被爆当時の状況や人々の体験が具体的に示されている。挿絵は長崎県被爆者手帳友の会元会長・深堀勝一が担当。被爆五十周年の節目に初代会長が全会員に呼びかけて刊行され、子どもたちへ被爆の実相を伝え、記憶を次世代へ継承することを目的としている。
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【ファイル1】
・表紙
・発刊の言葉(深堀勝一前会長)
・惨状絵図の全容(目次)(p5)
・投下直後の浦上天主堂写真
・長崎市原爆被災地域図
【ファイル2】原爆惨状絵図(第1~10号)
・あっ閃光だ!!
・顔面に負傷した女子挺身隊
・三菱兵器大橋工場第三門につめかけた負傷者
・救援列車第3号
・原爆投下被害を偵察するグラマンF 6F
・救援列車第3号を見送る道の尾住民
・爆心地の8月9日午后10時
・救援隊員に間違えられて
・母にカンフルを打たれて
・タンカに乗せられて
【ファイル3】原爆惨状絵図(第11~22号)
・660の棺桶が
・私の夫が紅蓮の炎に
・下の川からみた被災状況
・660の遺体焼却で全市が火事のようだった
・生きながら焼かれた少女
・銭座町山の手に逃げて行く被災者達
・日覚町から山の手に逃げて行く被災者達
・浜平町山の手附近でいこう被災者達
・昭和町から道の駅へ向けて急ぐ被災者
・廃墟と化した浦上天主堂
・私の手で焼いたお友達
【ファイル4】原爆惨状絵図(第23~34号)
・大村海軍病院第10病棟
・私の大村海軍病院日記
・防空壕でのお友達
・火の玉(あっ太陽が落ちた!!)
・五輪橋の上で
・可愛い私の妹が
・私の従妹 徳永りよう子さんも死んでいた
・私の姉はたんぼの中で死んでいた!!
・原爆投下機に対して対空砲火陣は、唯、沈黙していた。
・アラッ!!落下傘が落ちて来る
・原爆投下2ヶ月前に原爆の講習会が
・独、VⅠ、VIIのロケット兵器、実験が長崎で!!
・昭和20年8月1日、B24、B25による長崎大爆撃
【ファイル5】原爆惨状絵図(35~49号)
・降伏ビラが落ちて来た
・七高生大いに暴れる
・B29 黒煙を吐いて、長崎上空を!
・輸送の産業戦士(馬ちゃん)浦上駅前に戦死する
・さげすんでいた朝鮮人に助けられて
・浦上天主堂の存置運動についての経過
・大学病院の中で私は生きていた
・長崎商業校で、財津先生助けて!!
・私達は岩郷の防空壕で助かった
・もゆる長崎駅
・爆心地進入の関所、井樋の口
・川の中に飛びこんだとき原爆が!
・浦上川大橋のほとりで
・大村海軍工廠爆撃のため、B29数編隊式見上空通過!!
・兵役忌避工作は成功すれど、原爆の運命は悲し
【ファイル6】原爆惨状絵図(第50~64号)
・大村海軍病院のベッドの中で、人類は必ず滅亡すると
・私は長崎警察署の望楼から、ただひとり原子雲を見た。
・私は爆心地(大学病院)附近で野宿した。
・お母さんの金の指輪 ゴルフバットとなりて
・赤迫トンネルの前で私が見たもの
・清水町 照門寺の下で
・常在寺(川棚町)に収容された被爆者
・ガスタンク爆発のために爆死した人々
・諫早駅前における救援活動
・48年ぶりに執刀医発見されて
・開戦の日12月8日の思い出
・爆心地慰霊碑撤去は何の為か
・慰霊碑撤去は許されん
・私の主人が死んだのよ!遺族年金を申請してみたら!!
・長崎駅からみたガスタンク
・被爆惨状絵図第1号関連資料「被爆者としての私」
・被爆惨状絵図第2号関連資料「被爆者としての私」
・被爆惨状絵図第3号関連資料「被爆者としての私」
・被爆惨状絵図第4号関連資料「被爆者としての私」
・被爆惨状絵図第5号関連資料「被爆者としての私」
・原子力船むつと被爆者対策
・被爆者特別養護ホームかめだけの設立趣旨とその全容
・長崎の鐘 第1号(長崎市平和公園)
・長崎の鐘 第2号(ソ連・レニングラード)
・長崎の鐘 第3号(中国・瀋陽市)
・長崎の鐘 第4号(ハワイ州・ホノルル市)
・歴代「友の会平和賞」について
